そういうものが必要だ、価値があることだと思い、効果があるように思うのは、
結局、人間が先に悪いことをしているからなんです。価値があるような、
効果が上がるような条件を、先に作っているということなんです。
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人間が、医者が必要だ、薬が必要だ、というのも、人間が病弱になる環境を
作り出しているから必要になってくるだけのことであって、病気のない人間
にとっては、医学も医者も必要でない、というのと同じことです。
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人間の知恵の否定です。
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子供の教育にしたって同じことです。私もはじめそれで失敗したが放任と
いうことと、自然ということが混同されていて、放任が自然であるかの
ように錯覚している場合が多いんです。
いわゆる放任状態にしておくから、教育しなきゃならなくなってくると
も言える。自然だったら、教育は無用なんです。
たとえば、子供に音楽を教えることだって、不自然で、不必要なんです。
子供の耳は、ちゃんと音楽をキャッチしている。川のせせらぎを聞いても、
水車のまわっている音を聞いても、森のそよぎの音を聞いたって、それが
音楽なんです。本当の音楽なんです。
ところが、いろんな雑音を入れておいて、耳を混乱させておいて、つまり、
まちがった道に子供を導いて、子供の純なる音感を堕落させてしまう。(略)
そして不自然な状態において放任しておくと、もう小鳥の声を聞いても、
風の音を聞いても、それが歌にならないような頭になってしまう。
そんな頭にしておるから、今度は一生懸命音階とか音符とかを教えて、
歌が歌えるように、音楽が聞けるように、作曲できるように教育しなけ
ればならなくなる。
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一般には、自然がいいぐらいのことは誰でも考えている。ただ何が
自然なのかがわかっていない。自然を不自然にする最初の出発点は
何なのか、ということがはっきりつかめていないんです。
自然は、人間がほんのちょっとした知恵を加える、ちょっとしたハサミを
加える、ちょっとした技術を加えたときに、とたんに狂ってしまう。
その木全体が狂ってしまう。取り返しのつかない狂いを生じてしまう。
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結局、人間が、その知恵と行為でもって、何か悪いことをする。
悪いことをしておいて、それに気づかないままに放っておいて
その悪いことをした結果が出てくると、それを懸命に訂正する。そして、
その訂正したことが効果をあげると、いかにもそれが価値あるりっぱな
もののように見えてくる、というようなことを人間はあきもせずやって
いるわけです。
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科学者にしたって、そうですね。
えらくなろうと思って、夜も昼も一生懸命本を読んで勉強して、近眼になって、
いったい何のために勉強するんだといえば、偉くなって良いメガネを発明する
ためだ、というようなことなんです。
勉強しすぎて近眼になって、メガネを発明して有頂天になっている、これが
科学者の実体だと思います。
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科学者が自然を離れれば離れるほど、遠心的に離れていくほど、求心的な
作用が働いて、自然に帰りたくなる。原点に帰りたくなる。科学に対する
猜疑も強くなる。(略)
ところが、作用と反作用、遠心力と求心力というのは、二つのように見えて、
実は一つなんです。ここに来る連中は、原点に帰ろうとしてやってくるの
だろうけれども、本当に帰ろうとしているのかというと、私の目には
どうしてもそうは映らない。
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原点をはっきりつかんで、原点に帰るというのではなくて、原点がわからない
ままに、右往左往する。つり合いの観念から右の者は左の方向に、左の者は
右の方向に、中心を求めて動いているにすぎないんです。結果的には原点の
周囲を右回り、左回りに、ただぐるぐるとまわっているにすぎない、という
ことなんです。
ですから、それは原点に一歩でも近づくことはなくて、右の者が左に向かって、
少し反省してみたり、左の者が右の者に教えを乞うて調和をはかってみる、
というようなことではなかろうか。
自然に帰ろうというような運動でも、公害問題でも、本当の解決に向かって
進んでいるのではなく、自然離反、自然破壊の一小休止、一ブレーキの役目
を果たしているにしかすぎないと思っているんです。
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結果的に見たら、やっぱり一歩も自然農法に近づいているのではなくて、
むしろ、離反しているのではないかと思えてならないんです。
放任と自然はちがう というのを言語化できてよかったです。こういう人が言うのは信じる。
深山幽谷でない限り 「自然」とはいえ人の影響でおかしくなってるから
そのまま放置するだけでは 本来の「自然」になって行かないことが多いということだな。
そしてそういう背景があるから「自然農法はむずかしい」というんだな。
むずかしい、というのはだいたいの場合「自分が望むような成果は出ない」という意味だな。
元々人間がおかしなことをやっているというのはほんとにその通りと思うし
大体の場合、本当に「自然に帰る」気なんてない というのもなんか賛成。
人間がえらい、というか 自分の思考 が自然より力がある という感じは
根底から消えることがないのがほとんどなんではないかと感じたりします。
「自然農法」とかをやるのは、「自分の思考力で管理するやり方でよりうまくやるために参考にする」ため。
本はまだ途中です。
アカシア(外来種)を植えると土が耕されていい、でもでかくなるからじゃまだから切る、
それもめんどうだ みたいなことも書いてあって きれいごとな自分は え(- -“;と思った。
外来種なんかみずから植えるもんじゃないでしょ。
「現代の老子」に わたいがなんか言えるもんでもはないですが。ただの感想。